私は当時、テレビで映る被災地の状況を見て、何か自分に出来る事はないかと考えていました。
震災直後は、混乱を避けるため個人で現地に行く事は出来ず、私に出来る事といえば募金箱にお金を入れる事ぐらいでした。
その時、父が会社で支援物資を被災地に出すという事で、一緒にボランティアとして現地に派遣してもらう事になりました。
4月7日、ボランティアとして友人一人と供に現地に到着しました。
現地は、本当に言葉を失ってしまう程ひどい状態で、道は瓦礫で覆われ船や車が何台も積み重なって放置され、建物はほとんど原型をとどめていない程壊れていました。車の外に出ると鼻で呼吸が出来ない程臭いがひどかったのを覚えています。また道には魚の死骸が到る所に落ちていました。
市役所の中では。『死亡届』と書かれている窓口にたくさんの人が並んでいました。外の仮設の給水場や食料支援の建物の前にも、たくさんの人が並んでいて、とてもじゃないですが写真を撮れる状況ではなかったと思います。
そこから一週間、石巻ボランティアセンターの校庭でテント生活をしながら、ボランティア活動を行いました。 ボランティアセンターには約200人のボランティアがテンや自分の車の中で生活していて、毎朝8時になるとそれぞれ振り分けられた場所に赴いて瓦礫、ヘドロの撤去作業や、まだ壊れていない建物(家や学校)の中の清掃作業を行いました。
その作業は大体16時くらいに終わってしまい、その後は各自休憩するのですが、私たちは近くの家の人の瓦礫の撤去などを暗くなるまで手伝ってからテントに帰っていました。
近くに住む三浦さんという老夫婦の家がとてもひどかったので、彼らの家を主に毎日手伝っていました。
テントでの食事は、炭に火をつけてコメを炊き、それにふりかけや塩をつけて食べていました、当然シャワーはなく、服もほとんど変えずかなり臭い状態で毎日を過ごしていました。
5日目も、いつもの様に作業を終えた後に三浦さんの家に向かい作業をしていると、『お風呂をわかしたから今日は入っていきなさい』と三浦さんに声をかけて頂きました、現地には当時水もガスも通っていませんでしたが、近くに三浦さんの親戚が住んでいて、そこから水を大量に貰ってきたから今日は薪で風呂をわかせるという事でした。
私たちは、『ボランティアがそんな事に甘える事はできません』と断り続けましたが、三浦ふじこさん(通称ふじこちゃん)が頑固で、最終的に入ることになりました。
風呂に入っている時は、ちゃんと帰れるところがある自分が甘えてしまっていることに対する後ろめたさと、こんな状態でも自分たちにここまでしてくれる三浦さんに対する感情など、いろいろな感情がうずまいていました。
お風呂から出て、お礼を言おうと思って居間の扉を開けると、三浦さんの息子さんや新s根木の方々が座っていて、僕たちに『ボランティアに来てくれて本当に助かっている。本当に有難う』と涙声で言っていて、思わず涙してしまったのを覚えています。
当時、海の近くにいけば行く程、現地は悲惨で私たちはボランティアをしていても、私たちはボランティアをしていても感謝をされるという経験はほとんどありませんでした。その時の現地の人々は体も心も疲れていてそんな余裕もなかったと思います。親戚が亡くなっている方も多く、三浦さんも親戚の6人が亡くなってしまったとおっしゃっていました。
ボランティアは感謝をされるためにしていたわけではないですが、現地の人に感謝されたことで、自分がしている事が本当に人のためになっていると感じる事ができ、より復興のために頑張ろうと心から思いました。
その後、4月13日まで毎日ボランティアを行い、東京へ帰りました。
途中震度6強の最大余震が発生し、地震の怖さを身を以て体験することになりました。
現地でボランティアを行うことで、テレビで見る被災地とは全く違う、本当に悲惨な現状を目の当たりにしました。 この街の復興のために私はもっと貢献したいと思っています。
そして、今の自分の生活がいかに幸せであり恵まれているか、という事を再認識させられました。自分が当たり前であることが、どんなに幸せであるかとちゃんと認識しながら生きて、そして復興にも貢献したいと思っています。
writer歳原 大輝(立教大学4年生)